漆は自然界に存在する最強の接着剤ですから、
これを使って壊れたうつわを修復するというのは非常に理にかなったことだと思います。
その歴史は長く、すでに縄文時代にはひびが入ってしまった土器を赤い漆で修復していたとか。
およそ3,000年以上も前の話です。
では、なぜそこにわざわざ高価で貴重な金を撒くようになったのでしょうか。
金継ぎそのものは、室町から桃山時代にかけて発展した茶の湯とともに誕生したと言われています。
その頃、茶の湯の流行に目をつけた織田信長は、千利休らとともにこれを政治的に利用。
名物の茶器ともなれば一国一城と同等の価値があるものとし、手柄を立てた家臣などに与えていました。
そんな茶器が戦災などで壊れたら、職人技術の粋を集めて修復しようと思ったとしても不思議はありません。
それくらいの価値が、拝領品として用いられる茶器にはあったのです。
とは言え、卓越した審美眼を持つ千利休をはじめとした当時一流の茶人たちが、
一歩間違えば野暮くさくなってしまいそうな金をふんだんに使うことを、果たして良しとしたものでしょうか。
あえて傷を隠さず、それを景色として愛でるという発想の転換そのものは画期的だったにしても。
金継ぎではありませんが、金蒔絵が施された漆器について、小説家の谷崎潤一郎は次のように書いています。
古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を描く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗いところでいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、言い知れぬ餘情を催すのである。
谷崎潤一郎『陰翳礼賛』(中公文庫/2010年)
狭く薄暗い小間の茶室で、ふとした瞬間に金継ぎされた茶碗が、妖しくギラリと底光りする。
当時の茶人たちは、そこに幽玄を見たのではないでしょうか。
そして、移ろいゆくもののはかなさの中にある得も言われぬ禅味を、茶の苦味とともに噛み締めたのでしょう。
つまり、金継ぎ本来の美しさとは、その前提に「陰翳」があってこそのものだと思えてならないのです。
これはあくまでも私的な推測ではありますが、あながち大きく外れてはいないかもしれません。